薩摩義士のおかげで
今がある
宝暦治水と薩摩義士
一、木曽三川と輪中
江戸時代、木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川下流域には周囲を輪のように堤防で囲った輪中が大小数十存在していました。
輪中とは、集落を水害から守るために堤防で周囲を囲んだ地域のことです。
しかし、ひとたび大雨が降ると川の水が溢れ
毎年のように水害が発生し、木曽三川の下流域は洪水常襲地帯となりました。
二、幕府からの命令
宝暦3年(1753年)12月25日、江戸幕府は御手伝普請(費用と人夫は命ぜられた大名が負担)をとして木曽三川分流工事を薩摩藩に命じました。翌年の宝暦4年(1754年)1月16日に薩摩藩主島津重年公は家老平田靭負を御手伝普請の総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に命じ、1月29日鹿児島を出発し1200㎞離れた美濃を目指しました。工事に携わった薩摩藩の人数は947名にも及んだ。
三、難航する治水工事
工事は2月27日より始まり、工事区域は木曽三川の河口より50~60㎞にもわたり、193ヵ村(現在の三重県桑名市、岐阜県海津市・羽島市・輪之内町・養老町・安八町、愛知県弥富市・愛西市の木曽三川流域地区)にも及び、工事箇所は二百数十カ所もありました。
資材集めにも苦労し、石材は木曽川上流の美濃太田、長良川上流の郡上あたりから船で運ばなければならなかった。もちろん人夫や運送料などはすべて薩摩藩の負担となっていた。
四、治水工事の犠牲者
薩摩藩の最初の犠牲者は永吉惣兵衛でした。工事開始よりわずか一月半後の4月14日のことです。この海蔵寺には永吉惣兵衛【戒名:實傳要眞居士】のお墓と弔い証文(埋葬証文)がのこっており、弔い証文に死因は「腰の物(刀のこと)にて怪我」とかかれています。また、国元である薩摩に遺言書がとどけられており、この証文は自害であるという貴重な資料であります。自害の理由は定かではないが、幕府への反抗心ではないかといわれている。その為、弔い証文の死因には自害ではなく「腰の物にて怪我」と書かれている。
五、工事完了、平田靭負の最期
費用40万両(約320億円)という前代未聞の大治水工事も1754年(宝暦5)年5月に完成しました。工事自体は完成まで僅か1年程という短期間となりましたが、その代償は非常に大きく、幕府抗議のための自害や病死などで84名もの人々が命を落としました。
当時の総奉行である平田靭負は1754年(宝暦5年)5月25日、「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずろう 美濃の大牧」という辞世の句を残し、自害したといわれております。
遺体は、京都伏見にある大黒寺へ向かわれる途中、部下の眠る海蔵寺に立ち寄り、海蔵寺十二世雲峰珍龍大和尚は「遺骸のまま京へお送りするのはしのびない。拙僧が読経回向し旅立っていただきたい」と申し丁寧に弔い、京へ旅立ちました。
海蔵寺には平田靭負【戒名:髙元院殿節岑了操大居士】の供養塔、薩摩義士23名のお墓があり、また木像としては唯一の平田靭負像がございます。平田靭負翁のご命日であります5月25日には、宝暦治水薩摩義士追悼供養大法要を毎年厳修しております。