三重県桑名市の宝暦治水 薩摩義士墓所、曹洞宗 法性山 海蔵寺








宝暦治水と薩摩義士 平田靭負の説得  悲惨・苦難の治水工事
余りに大きい犠牲  平田靭負翁の最期 義士の古文書と遺品


木曽三川
 木曽川…長野県木祖村の鉢盛山が源流
 長良川…岐阜県高鷲村の大日ヶ嶽が源流
 揖斐川…岐阜県藤橋村の冠山が源流
それぞれ大小あわせて383支流が合わさって西濃平野より、丁度漏斗のように寄り添うごとく南下して伊勢湾にそそいでいる。普段は肥沃な土砂を運び、豊かな水で流域を潤すが、一朝大雨が降れば洪水など手の付かない暴れ川に変貌する。尾張藩が犬山より弥富まで48キロメートルにわたって木曽川左岸堤防を高く強固に築き、不文律ながら、他の堤防はそれより三尺低かるべしとなってしまいました。
この「お囲堤」ができてより慶長14年から宝暦3年までの144年間に、何と112回もの洪水により、大被害が相次ぎ周囲を輪のように堤防で囲った「輪中」という独特の生活様式を営んでいた住民は、田畑・家屋・生命まで、計り知れない被害を被ってきました。


理不尽な幕府
幕府も九代将軍家重の代、老中政治でようやくにしてこの木曽三川の大治水工事を決意し、事もあろうに外様大名であり関ヶ原の合戦以来、勤倹尚武の薩摩隼人であり砂糖などの生産その他で幕府としては「目の上のたんこぶ」的な存在の島津藩の財政疲弊をねらって、縁もゆかりもない、三百里もへだてた薩摩の国島津藩に「お手伝普請」(幕府が設計・監督をして、費用と人夫は命ぜられた大名が出す)を命じました。薩摩では当然、賛否両論で騒然となりました。



鶴丸城では幕府との一戦の声が強かったが、勘定方家老の平田靭負は
「皆の怒る気持ちはこの平田とて同じである。戦さをすれば薩摩の民百姓が一番犠牲になるだろう…。ならばこの島津藩に連綿と続く『日本人は皆兄弟という同胞愛』と『仁義』(人を愛する最高の道徳)という精神で、水におぼれる美濃とやらの人々をお救い申そうではないか、戦さ以上に苦しいかも知れぬが成し遂げれば、島津家もご安泰であろう」
情理を尽くした平田の言葉に反対する者もなく、若き藩主「重年公」も「苦しく辛いだろうが、いま平田の申す如く、一同の者、水と闘ってくれぬか」という哀願にも似た言葉に藩士達は暗黙の追随をしたのである。


当時では他国とも言える美濃・伊勢・尾張へ三百里も隔てた治水工事に947名の薩摩藩士が宝暦4年2月末より刀を捨てて水中にはいり、鍬・掛矢と幕府の叱声を浴び、言葉は通じぬ他国の土地で、朝は明星・夜は夜星、一汁一菜にて疲れをいやす風呂もなく、煎餅布団に身をくるみ、故郷をしのび、幾夜枕を濡らした事であろう。しかも幕府は村々に高札を立てて、
 1.食事は一汁一菜で馳走がましき物はだすな
 2.草履・みのなどは決して安く売るな
 3.宿舎は、板塀などこわれても、修理するな
 4.決して差し入れがましき事はするな
 5 . 幕府の悪口などを聞いたらすぐ密告せよ
などなど、お手伝いにきた薩摩藩士に非礼な事を土地の人々に命じたのである。


最初の犠牲者
治水工事が始まって50日、早くも犠牲者が出ました。永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です。しかし、幕府への反抗心からと取られること恐れ、病死などと偽って報告しなければなりませんでした。また、葬儀は仕事を終えてから夜にせよのきつい幕命のため、日が暮れてから各寺を回り埋葬を願いましたが、幕府を憚り引き受ける寺院はありませんでした。
最期に海蔵寺に願ったところ、十二世雲峰珍龍大和尚は「死者を弔うのは僧侶のつとめ」と快諾し、手厚く埋葬して戒名を過去帳に残しました。

千本松原(水墨画)他の自害者・病死者
他の自害者は病死などで処理され、海蔵寺など14ヶ寺(幕府方など3ヶ寺を含む)及び京都1ヶ寺に埋葬されました。真の死因は公開されず、悲しくもかの有名な「腰の物にて怪我いたし相果て候…」の古文書が薩摩藩士の悲劇を今に伝えています。
 切腹自害者…51名 病死者…33名 合計84名
 他に幕府方…2名  人柱…1名
費用は40万両という当時では想像もつかない大金であり、薩摩に残った藩士・領民も重い税金に苦しんだのであります。


千本松原(水墨画)薩摩藩士の必死の働きで、さしもの難工事も宝暦5年5月23日もって幕府の検査がすべて終了しました。
平田靭負は工事完了を国家老と薩摩守に書面にしたため、5月25日東天の日の出を拝し、西に向かって主家の安泰を祈り、“住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずろう 美濃の大牧”という和歌と詠み切腹しました。辞世の歌ではありますが、自害し果てた部下達を病気、怪我などと届け出た手前、自身のみ辞世を残す事はできず、料紙には「平田靭負 正輔」の名前は一切書かれていません。
遺体は、京都伏見にある大黒寺へ向かわれる途中、部下の眠る海蔵寺に立ち寄られましたが、雲峰珍龍大和尚は「遺骸のまま京へお送りすることはしのびない。拙僧が読経回向し、旅立っていただきたい」と懇ろに弔われ、東海道を西へ向かわれたのです。そのご縁にて海蔵寺に供養塔が建てられました。


 古文書
薩摩藩士自害の真因は、理不尽な幕府に対する抗議とともに、大幅な予算超過の責任を取ったものであり、海蔵寺に残る古文書が義士達の苦汁の選択を物語っています。別項の写真を参考に、現代流に読み替えて記します。
一礼之事
 松平薩摩守家来永吉惣兵衛腰の物にて怪我致し相果て候に付き、貴寺に於いて葬り申し度く、御頼み申し入れ候所、相違御座無く候。
 右惣兵衛宗旨之儀は代々禅宗、国元にて笑岳寺旦那に紛も無く御座候。尤も向後右惣兵衛儀に付き、何様之儀出来致し候共、御寺に御世話掛け間敷(かけまじく)候。
 後の證の為仍如件(よってくだんのごとし)
松平薩摩守内
宝暦四年戌四月十六日   二宮四郎右衛門 印
勢州桑名
海蔵寺

桑名海蔵寺差入證文一礼


焼酎徳利

宝暦4年7月4、5日に第24代藩主島津重年公は一子善次郎(重豪しげひで)を世継ぎにと幕府に届ける事を名目に治水工事の現場を視察され、藩士を励ます為、懐かしい薩摩焼酎を、各出小屋に賜った。
藩士たちはどんな思いで 殿様ご下賜の焼酎をいただいた事であろうか…
この徳利は昭和3年、千本松原近くの農家より海蔵寺に届けられた。鑑定の結果、まさしく当時の物で薩摩義士を偲ぶ遺品として寺宝としています。